『クタドゥグ・ビリグ』は古代テュルク語で書かれていることから、この日本語版についてもテュルク語から翻訳されたと誤解される方がいらっしゃいます。しかし、日本語翻訳に際し底本に用いたのは、クタドゥグ・ビリグ中国語訳の『福楽智慧』です。そこで、日本語翻訳本の出来た経緯についてお話しします。

『クタドゥグ・ビリグ』との出会い
わたしが『クタドゥク・ビリグ』と出会ったのは、北京留学から帰国後しばらくたってからでした。父の友人から、「中国新疆に住むウイグル族にとって大変貴重な古典があるのだが、日本語にまだ翻訳されていないらしい。マキャベリの『君主論』のような偉大な古典で、世界的にも評価が高いもののようだ。中国語に翻訳されているものを見つけたので、中国語が分かるゆかりさんに翻訳をお願いできないものだろうか。」という話をいただいたのです。
ちょうどそのころわたし自身も、帰国後、就職活動などしている時期で、自由になる時間も多かったため、最初は気軽にこの本を手に取りました。
しかし、この本を読み進め、基礎研究をしていくうちに、大変貴重な本だということに気づきます。11世紀のテュルクの民の宗教、哲学、政治、生活すべてにいたるまでの様々な知識が凝縮されていること、それを擬人化された4人の主人公の対話という形で話を進めていく、文学としても、今までみたことのない形態のものだったらです。

中国語翻訳版『福楽智慧』からの翻訳
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人民出版社『福楽智慧』
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人民出版社『福乐智慧』,1984

わたしが日本語版の底本としたのは『优素甫・哈斯・哈吉甫著 福乐智慧』(民族出版社 1984年)です。これは新疆社会科学院民族文学研究所が研究、編集し1984年に出版した現代ウイグル語とともに中国語に完訳されたものとなります。
わたしは、この中国語の『福乐智慧』を底本に、自身が得意とする中国語から今回の日本語版の翻訳を行いました。もちろん途中、カラ・ハーン朝テュルク語で書かれた原文からの翻訳が最も適切だという指摘も受けました。確かにその通りでそのことで悩みました。しかし、翻訳についてサポートしてくれた方々から、「原文から正確な翻訳ができる人などほとんどいないから、これまで出版されなかった。重訳であっても、まずは日本語に翻訳し多くの人に読んでももらうことが大事だ。」という言葉に後押しされ、翻訳をつづけました。

現代ウイグル語、英語版なども参照に
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新疆社会科学院民族文学研究所編 民族出版社『福楽智慧』,1984年
左ページは現代のウイグル式のアラビア文字、右ページは現代のウイグル式のラテン文字となっている。

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Yusuf Khass Hajib,Wisdom of Royal Glory(Kutadgu Bilig),1983
ダンコフ(Robert Dankoff)による英訳本


けれども中国語版だけで、翻訳の正確性にかなり疑問がでてきます。中国語はその特性上、漢字で書れ、また中国語としての音の響き、語呂をあわせるために漢詩のような世界になってしまいます。そのため少なからず中国圏文化の影響が『福乐智慧』にも反映されています。
そこで、少しでもこのような問題を解決するために、ウイグル人の友人の助けもかり現代ウイグル語訳と一字一句照らし合わせ、またアメリカ人のテュルク学者ダンコフによる英訳も参照に翻訳の作業を行っていきました。
最終的には専門家によるテュルク原文からの参照も含め、この日本語訳ができあがりました。

日本語翻訳本の価値
わたしはテュルク語学者でもなく、その専門家でもないため、この日本語翻訳には問題点もまだたくさんあります。今後、しかし、今回日本語で『クタドゥグ・ビリグ』を紹介できたという点で評価をいただいております。今後もこの本をきっかけに一人でも多くの日本人にテュルクの文化に興味を持っていただけたらと思っています。